歌うならトマトもつけてよ

トマトはにんにくで炒めてね

彼岸のみぎわに立つ人よ − 池辺葵「ブランチライン」

池辺葵はものすごい作家だ。

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池辺葵『ブランチライン』第6巻,p109)

たった1ページでわれわれに死のにおいを嗅ぎ取らせる。

登場する女性二人は直ちに死を想起させるような会話をしているわけではない。デパ地下ブランドと思しきゼリー、背の高いほうの女性の伏せた目線、「ゼリーなら食べやすいしね」「きれいなもの見せたげたいし」という会話、ただこれだけで池辺葵は死にゆく人間の存在を克明に浮かび上がらせる。

女性はデパートを出たその足で、ある人物の病室を訪ねる。

「イッちゃん久しぶり イッちゃん変わんないね」(池辺葵『ブランチライン』第6巻,p118)

病室には黒髪を長く伸ばした女性が体を横たえており、傍らには彼女の姪らしき少女がいる。“イッちゃん”と黒髪の女性は古い知り合いのようだ。親しい友人どうしの砕けた口調で語りあうふたり。ふと、どこか遠い目をしながら、黒髪の女性はこんな頼み事を口にする。

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池辺葵『ブランチライン』第6巻,p124)

抑えた描線ながら、横たわる女性の重たげなまぶた、外光を受けておそらくいっそう青白いであろう肌の色、疲れ切ったような、それでいて不思議と悲壮感のない乾いた表情、あごを引いたうなずきなど、末期の友人どうしの静かな情感の高まりを描いてあまりある。

もはや化粧道具を手に取ることもかなわない友人のかわりに、肌に粉をはたいてやる。生と死の水際に立って、青白くこけた頬に化粧を施すことを頼めるような相手を持つことができる人間が、どれほどいるだろう。少なくとも彼女にとって“イッちゃん”はそういう存在だった。(そうと明示されているわけではないが、おそらく)傾いた午後の日差しが病室をあたたかく照らし出し、化粧を施す側と施される側、二人の口元にはうすく笑みすら浮かんでいる。いつしか面会時間は終わり、停車場の前でバスを待つ女性の絵。バスの中からまちの喧騒を眺めるコマ。通り過ぎていく人々の顔。

そうして、息をのむような美しい見開きの先に、死化粧を施された友人の顔。ひとりの人間が死に、装いを整えられて、煙のひとすじになる。ここで、読者の脳裏にひとつの奇妙な錯誤が生じる。黒髪の友人に、死化粧を施したのは一体誰だったのだろう。われわれはすでにその答えを持っている。“イッちゃん”だ。あのやわらかな光の満たす病室で、刷毛を握った彼女が、頬にはいたであろう紅のひとさしを幻視する。実際に、彼女の肌に最後にふれたのが誰かということは関係ないのだ。

死んだ人間の顔を、何度か見たことがある。止まっているな、という印象がまずあって、そのことに対する後ろめたさで、長時間の直視に堪えない。“イッちゃん”は、とりどりの花に囲まれた友人の死に顔を、どんな心持で眺めたのだろう。そんなことをつらつらと考えていたら、こんな歌ができた。

 

箱入りのキャンドルのよう あなたならきっと綺麗に燃えるのだろう

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池辺葵『ブランチライン』第6巻,p130)