歌うならトマトもつけてよ

トマトはにんにくで炒めてね

たましいの駆け込み寺としてのArt Hirahara「Verdant Valley」

 上司に仕事をバチボコにけなされたときとか毛ほどもきょうみない恋愛の愚痴聞かされたときとかそそけ立つ悪意にふれて出血が止まらないときとかにふと「もうこれ以上ここにはいられない、ここにはいたくない」と思い詰めることがあって、それが職場ならトイレの個室にこもって壁のタイルの隙間にこびりついた黒黴を眺めるか自販機で飲みたくもない茶あ買うかでごまかすしかないけど、もっと重大な逃れようのない局面にあって「もうだめだ!!!」となってしまったらもはやあきらめざるを得ないしヘラヘラヘラヘラお愛想の笑いを貼り付けながら全霊でその場をしのぐしかない。

Verdant Valley

Verdant Valley

  • Art Hirahara
  • ジャズ
  • ¥255

Art Hirahara『vardant valley』

 

 そういうときにはこの曲を頭で思い浮かべる。もうここにはいたくない、ここにはいたくない、ここは息が詰まる、このままでは遠からず窒息死する、vardant valleyを頭の中で流す、するとフロアの隅にある黒黴タイルの胸苦しいトイレに大きな窓がつく。窓だ! とおれは思う。縁日で売ってるバネのおもちゃみたいに跳ね上がって窓をそっとあける。そうすると密室かと思われていたトイレにほのかに風が通って、ああなんだか前にもこんなことがあったなとおれは思う。おれの通っていた中学校は新しくて、トイレなんかもきれいでしゃんとしてて、トイレ掃除はきらいだったけど晴れた日に窓をあけて風を通して、スピーカーから流れてくる癒しの音楽〜ジブリがいっぱい ピアノアレンジコレクション〜をぼんやり聞いているのは好きだった。あのときの光のさしこみ加減を思い出しながら、窓枠を蹴って校庭に飛び出して、道路を突っ切って雑木林も越えてって、もっともっと遠い、人間も風みたいに自由に吹いてもいい場所に向かってスピードをあげていく。ここまでくると、胸のつかえはとれている。ラベンダーの芳香剤のかおりもそこまで気にならなくなっていて、デスクに戻るころにはまあ、病気が治ったわけではないが身体を起こすことくらいはできる状態になっている。

 以前はいろいろ無理になると車を飛ばして田んぼを見にいくことでなぐさめを得ていたが、今はこの「vardant valley」を聴いて真新しい校舎のまだ大丈夫なトイレから風の吹きぬける谷間へ渡る想像をすることで、田んぼ逃避行の代わりとしている。おれは大抵気楽な人間だが、それでもメンタルがギリギリまで落ち込むことはあって、そんなときには、こういうたましいの駆け込み寺のような音楽が必要なのだ。