ASS MAGIC『終点』
昨日今日はずっとこの曲を聴いていた。
へんな曲だ。でも、そこがくせになる。
休日、家事をあらかた終えたころにはもう日が傾きかけていて、ああ、週末っていうのはいつもこんなふうだ、とため息をつく。
いつもなにかやろうやろうと思うのに、なにかをやれる環境が整ったころにはあるべき「タイミング」みたいなものを大方逃してしまっている。
でもまだ一日のすべてが終わったわけじゃなし、しかたがない、日が沈むまでにもう一仕事…くらいのほどよい力の抜け感がある。ふうっやれやれよっこいしょ、の力加減だ。
こういう曲を聴くのは、うすぐもりの昼下がりか、そうでなければ日付が変わる30分くらいまえがいいと思う。
なんとなく「終点」って聞くと地下鉄のホームを想像する。
バスのホームでも、路面電車のホームでも、はしっこにあれば終点であり始点なんだろうけど、「終点」って言葉にはそこはかとない寂寥を感じてしまう。その寂しさの感覚みたいなものが、おれの中の「終点」を地下に追いやり、壁で囲わせるのだと思う。
でもこの曲の立っているところは、地下鉄のホームじゃない。もっと生臭くて、風だって吹いてて、四角い壁に囲われてる感じでもない。
あえてたとえるなら、そう、オフシーズンの観光地のひとけのない波打ち際が近いかもしれない。
あるよね、人間、たまに無性にシーズンでもないのに海を見に行きたくなること。そういうときって大体行き詰まってて、自分のいまいる場所にうまくフィットできている感覚がないから、なんか、なんとなく許されたくて、受け入れられたくて海に行く。そういう気分のときの、眺めたところで現状が劇的に改善するわけじゃない、でもどうしても来ずにはいられなかった海の、波打ち際に立って感じる「終点」。
特にこむずかしいことを言っているわけでもない歌詞も好きだ。後半のほうとか、ラララしか言ってないし。
いってしまった、おわってしまった、と歌う歌詞はさみしげではあるけれど、喉からラララが出てくるうちは絶望のどん底にいるわけではなさそうだし、この波打ち際に立っている人も、これを聴く人も、当分はたぶん大丈夫なんだろう。